--バイリンガルはなぜ必要なのですか

世界的みたいでかっこいいじゃん

--はあ

ではなくて、後輩達の中で海外でDJとかいう、訳の分からない仕事をしてるのが結構いて、色々な曲をごちゃ混ぜにして1曲にしたりして使うらしいんだけど、選曲とクロスフェードが精一杯でバランスが取れないので、全篇ローブーストでとか、レコード素材の古い曲とかの音圧が上がるようにマスタリングして下さいとか、netで頼まれるのですよ。

それで、そいつらが今回公開する楽曲を地元のミュージシャン達にも聴かしたいからということで、一応2カ国語は曲が聴けるように作ろうとおもってね。FrはMiM名義の仕事絡みもあるし、日本語入りのページは海外のPCで観るとレイアウトが凄いことになっちゃってるから。

ところで、こういうのって、録音するのかよー

--後でまとめるときに、人それぞれのニュアンスが分かるから、普通そうですよ

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--最初はギタリストですよね

そうです、その前にバンドボーイの経験もさせて頂いたのですが

--あの、言葉遣いは普段のままで良いですよ、適当になおしますから

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1週間でそのバンドがパンクしてしまいました。その時にメンバーの人に「沢井昇」って名前を付けてもらって、バンドやってる間はずっと使ってました。

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--バンド活動はいつごろから

1960年代の後半頃、名古屋のザ・ジル「The Jill」っていうバンドにギターとして加入しました・・・

--伝説のドラマー・クマさんの最初のバンドですよね

当時は、まだクマさんとはあまり呼ばれてなくて、周りの人もバンマスと呼んでいましたね。 しかし、いつから伝説のクマになったのかね・・・アメリカへ渡ってからザ・バンドのメンバーと仕事してた頃のことか・・・
でもオレはこの、 教祖のような風貌だと思うよ。これ「The Jill」の末期で22才くらいですよ、老けてるにも程があるでしょう?当時のBassの「故・水野健二」には「物体?仏体?」などと呼ばれていたものです・・・シンセサイザー奏者の「喜多郎」氏がクマさんのことを「心の師」などと言っていたらしいが、この頃に彼がいたアマチュアバンド「プレイロード」を名古屋でプロデビューさせたり面倒見ていたので「律儀な彼が感謝の意味」で言っていると思うが、真実は「教祖キャラの師」だったとオレは推測するね・・・
でも、オレにとってもクマさんは音楽やってきた中での最重要人物であり師匠だからね。

Catalog 1の「To the drummer of the legend」の中でクマさんの当時の掛け声が聴けますが、聴き取れるかな? 「悪い星の下に」Born Under A Bad Signを歌っていた時の物なんですよ。

--この曲タイトルがモロなんですけど、クマさんへの曲なのですか

それだけじゃなくて、ネギドラムを作っていた根木さんが、銀座のヤマハにいた頃はピアノの調律もやっておられたそうで、なんとなくピアノをポロポロやっていたのを思い出して、メロのピアノのイメージが意外にも根木さんなのです。ドラムはクマさんのコピーでギターは「The Jill」時代のオレ、ベースは亡くなったケンチャン(水野健二)の音色やフレーズを思い出しながら作りました。

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--なぜ名古屋だったのですか

60年代の終わり頃ですが、東京はお揃いの衣装を着たGSみたいなバンドがまだ多かったし、好きなバンドが横浜と名古屋のディスコティックに出演していたのを見に行っていたので、声がかかったときにラッキーと参加したのです。
単純にゴーゴーガールがいるようなサイケデリックな照明のディスコでクリームとかジミヘンを演奏したかっただけでしたね。
その後ジャズ喫茶の老舗グランドキャニオンの専属なんかも経験したり、2年ほど「The Jill」でやっていたんだけど、その間、大阪万博なんかがあったり、京都などでも演奏していました。当時の京都は、海外からヒッピーが沢山来ていてステージから見ると外国みたいでした。それまで4人編成だったのが京都でキーボードが脱退して、3人のギタートリオになってしまったのですが、それがかえってバンドカラーを決定させ、以外と好評だったので最後まで3人でした。
後期には沖縄での仕事の話も来て(実力派バンドしか出演できなくて当時まだパスポートが必要なUSA)嬉しかったのですが、反面3人でのプレイに限界を感じていた頃でもあり、実際「コンディション・グリーン」や「キャナピス」が待ち構えている沖縄に乗り込む度胸はオレにはなかったし、流れは解散に向かっていて、その後、中京大学でのステージを最後に解散となりました。でも「The Jill」は、純なロックを経験した最初で最後の貴重な経験でした。後に偶然「紫」のドラマーの方に私の曲をレコーディングしてもらう機会があって、スタジオで宜しくって握手したときに、初対面なのに妙になつかしい感じがしてしまいましたよ。

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その後、大野氏の「Super Session Blues Band」に約2年間参加
その後、レッド・ツェッペリン「Led Zeppelin」にJimmy Pageの代わりとして加入
出来るわけがなく、ツェッペリンのようなバンドを作ろうと、メンバー探しの放浪の旅に出て現在に至ってます。

--30年以上たってもまだ、メンバーさがしてるのですか

はい。

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--あと、作曲関係は

80年代に、ソロアルバム用にと書いていた曲がボツになって残ってしまい、なんとかしようと1年間作家の事務所に所属して暗躍していました。このときに優秀な作詞・作曲家たちと交流が持てて、その後の音楽制作で随分助けて頂いています。
特に「池 毅」先生は、いつもほぼ丸投げでお願いしておりますので、この場を借りて感謝!

--こんな雑記ページで感謝しても、だれも見てないと思いますけど

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--今回の制作のきっかけについてですが

仕事で他人の音楽の制作ばかりしていて、いい年になって気がついたら、自分の音楽で人に聞かせられるものがない状態に気がつき、そろそろ形にしないと生物学的にきつくなるかなと思って。

--今回、色々な楽器を使ってますけど、ギターのほかは、参考までにどのような楽器を

ギャラを取れたのはギターだけで、ベースは録音なら少々、あと中学生レベルのドラムと小学生レベルのキーボードとバイオリンです。
あと、珠算は8級です。

--それは結構です

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--インストばかりですが

もともとが洋楽のインストで育った世代なので・・・やはり詞が付くとメッセージ・主義主張が明確になってイージーリスリング・BGMとしては、適当ではないと思うしね・・・生活空間の間接照明程度で、なおかつロックスピリットを奥に秘めた美しい音楽を作るのが理想です。


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